2009年9月18日金曜日

ぐるぐるしてる

30才まであといちにち、ちょっと、悩みというか、
自分の中でもてあましてる感覚みたいのがあります。

小さい頃から、季節の変わり目とか、気候の変化とか、そういう変化に弱かった。
自然だけじゃない景色や色とかにおいとか。突然の感覚とか。言葉とか態度とか。

弱いというのは、体が、ということではなくて、心?きもち?そこらへん。

冬は、空が高くて目をあけて見てると、冷たい空気が目に染みて、鼻がツンとして、なんだか、悲しくなったり、
夏は、雨が上がったむわっとした匂いとかドキドキしたり。

少なからず誰にでもある感覚であろう、この感覚。
わたしの場合は激しいのかも?と感じたのは高校のころかな。
みんなより、そこに重きを置いてるかもって。

さっきまでみんなで騒いでた教室に、忘れものを取りに戻ると誰もいなくて、なんだかそれが無性に寂しかったり

しますよね?

それを全面に出すと「絡みづらいひと」になっちゃうと思ったから、なるべく前に出さないように生きてきました。
あと、なんか、自分を特別と言いたいひと、っぽく誤解されるのもやだし。
大袈裟な言い回しなんですけど。笑

お題目唱えるだけて、泣いちゃう日もあるし、
感覚だけで息苦しい日、軽やかな日、いろいろあります。

会いたいひとに、会いたい。

そう思うと、もうそれだけしか考えられずに、
会いたい、会いたい、会いたい、って。

でもそれじゃいけないから、大人だしまともだし、って
平静に暮らすんだけど、
気を抜くと、涙がぽろんとこぼれたり。

しない?

会えたら、飛びつかんばかりに嬉しいんだけど、
また平静を装うとか。
時々すごく窮屈。

みんな、そうだよね?

みんなと同じである必要はないわけだけど、
わたしだけじゃないはず。

秩序とか、傍目とか、そういうなかでみんな生きているから。

その枠から、飛び出せたらいいのに、と願うのはわたしだけかしら?

ひとに迷惑をかけてまで、することではないけれど。

わたしが、無意味な涙を流すと、明らかにいらつくひともいるわけで。

誰かにありのままの自分を理解してもらうなんて、
そんな贅沢なことは、考えてもないけど。

もし、してもらえたら嬉しいし、してあげられたらいいな、とは思います。

自分が感じてきた違和感みたいなのは、心から愛するひとに出会えたときか、
夢を叶えたときに解決できるかと、漠然と思ってた。以前は。今はわからない。

ありのままの自分が一体何なのかもよくわからない。

わたしが赤って思って見てる色は、
本当は、みんなには、わたしにとっての青や、黄色なのかも知れないし。

子供の頃からそんなこと考えては、不安なような、ワクワクするようなきもちになった。

いまは、大人だから言わないようにしてるだけで、
中身は全然、子供なのかも。

30才になれるかな。
なれないって思っても、なっちゃうわけだから、笑
なるしかないですねー。

なにが言いたいのだろう、わたしは。

でも、ご信心している、って、確かなこと。
させていただいていることも、意味も。わたしがここに、いられることも。
感じる喜び、悲しみ。
生きる意味も。辛くても、幸せでも。
意味があるんだ、って。

自分の変化より、周りのことや、周りのために出来ること
ご信心に対する喜び、サイン、意味、
勘ぐりではなく、純粋に、感じることができたらいい。
そういう、自分でいられるよう、研ぎ澄ませたらいい。

そんな風に、考えたらば、
なんか、初めて、生まれて初めて、
生まれて良かったと思えたかも。遅いけど。

ママに言おうかな。ありがとうって。

想像しただけでむり!って感じですけど。笑

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