30才まであといちにち、ちょっと、悩みというか、
自分の中でもてあましてる感覚みたいのがあります。
小さい頃から、季節の変わり目とか、気候の変化とか、そういう変化に弱かった。
自然だけじゃない景色や色とかにおいとか。突然の感覚とか。言葉とか態度とか。
弱いというのは、体が、ということではなくて、心?きもち?そこらへん。
冬は、空が高くて目をあけて見てると、冷たい空気が目に染みて、鼻がツンとして、なんだか、悲しくなったり、
夏は、雨が上がったむわっとした匂いとかドキドキしたり。
少なからず誰にでもある感覚であろう、この感覚。
わたしの場合は激しいのかも?と感じたのは高校のころかな。
みんなより、そこに重きを置いてるかもって。
さっきまでみんなで騒いでた教室に、忘れものを取りに戻ると誰もいなくて、なんだかそれが無性に寂しかったり
しますよね?
それを全面に出すと「絡みづらいひと」になっちゃうと思ったから、なるべく前に出さないように生きてきました。
あと、なんか、自分を特別と言いたいひと、っぽく誤解されるのもやだし。
大袈裟な言い回しなんですけど。笑
お題目唱えるだけて、泣いちゃう日もあるし、
感覚だけで息苦しい日、軽やかな日、いろいろあります。
会いたいひとに、会いたい。
そう思うと、もうそれだけしか考えられずに、
会いたい、会いたい、会いたい、って。
でもそれじゃいけないから、大人だしまともだし、って
平静に暮らすんだけど、
気を抜くと、涙がぽろんとこぼれたり。
しない?
会えたら、飛びつかんばかりに嬉しいんだけど、
また平静を装うとか。
時々すごく窮屈。
みんな、そうだよね?
みんなと同じである必要はないわけだけど、
わたしだけじゃないはず。
秩序とか、傍目とか、そういうなかでみんな生きているから。
その枠から、飛び出せたらいいのに、と願うのはわたしだけかしら?
ひとに迷惑をかけてまで、することではないけれど。
わたしが、無意味な涙を流すと、明らかにいらつくひともいるわけで。
誰かにありのままの自分を理解してもらうなんて、
そんな贅沢なことは、考えてもないけど。
もし、してもらえたら嬉しいし、してあげられたらいいな、とは思います。
自分が感じてきた違和感みたいなのは、心から愛するひとに出会えたときか、
夢を叶えたときに解決できるかと、漠然と思ってた。以前は。今はわからない。
ありのままの自分が一体何なのかもよくわからない。
わたしが赤って思って見てる色は、
本当は、みんなには、わたしにとっての青や、黄色なのかも知れないし。
子供の頃からそんなこと考えては、不安なような、ワクワクするようなきもちになった。
いまは、大人だから言わないようにしてるだけで、
中身は全然、子供なのかも。
30才になれるかな。
なれないって思っても、なっちゃうわけだから、笑
なるしかないですねー。
なにが言いたいのだろう、わたしは。
でも、ご信心している、って、確かなこと。
させていただいていることも、意味も。わたしがここに、いられることも。
感じる喜び、悲しみ。
生きる意味も。辛くても、幸せでも。
意味があるんだ、って。
自分の変化より、周りのことや、周りのために出来ること
ご信心に対する喜び、サイン、意味、
勘ぐりではなく、純粋に、感じることができたらいい。
そういう、自分でいられるよう、研ぎ澄ませたらいい。
そんな風に、考えたらば、
なんか、初めて、生まれて初めて、
生まれて良かったと思えたかも。遅いけど。
ママに言おうかな。ありがとうって。
想像しただけでむり!って感じですけど。笑
0 件のコメント:
コメントを投稿